長島フクからの年賀状 (5)

年賀状について。
下山事件 最後の証言」の著者である柴田哲孝の母(=柴田宏の娘)の記憶によって、長島フクから柴田宏に年賀状が送られていたことが判明します。実際に年賀状が残っているわけではなく、母親がそれを見たことを証言しているという話です。


下山事件 最後の証言」から、その部分を引用してみます。

母の記憶によると、長島フクの年賀状が来ていたのは、昭和二四年から三四年までだという。祖父の年賀状を整理するのは毎年母の役目だったので、よく覚えている。後で調べてみると、長島フクは昭和三四年に子宮癌のために死亡していた。母の記憶と完全に一致する。毎年同じような図柄の年賀状で、旅館の名前と住所が印刷してあり、末尾に直筆で長島フクの名が書き加えられていた。五反野という住所にも覚えがあった。

柴田哲孝は、年賀状の存在によって長島フクと柴田宏の両者が知り合いであったことが明らかになって、長島フクが偽証をしたことと、亜細亜産業が下山事件に関係していたことの証拠となると言いたいようですが、それはおかしいと思います。
事件に関係しているのであれば、年賀状は家族に見られる可能性が高いので、むしろ送らない筈です。実際、娘に見られたために半世紀後に疑われて、「最後の証言」に書かれてしまった訳ですから。昭和24年の正月は事件前なので良いとしても、それ以降は送らない筈でしょう。年賀状の存在は、両者の関係が事件とは無関係のものであることを示していると言えるくらいです。
長島フクについては、下山事件に事前の協力関係がありえないことを以前に書いた(駅員の証言の部分)ので、年賀状が本当に送られていたとしても下山事件に関係ないことは明らかです。そして年賀状を誰が誰に送ろうが勝手ではあるので、このような年賀状は無かったと証明するようなことも無理です。(60年も前のことですし)


しかし幾つか気になる点があるので、そのことを書きたいと思います。


まず、長島フクと柴田宏はどういう関係なのでしょうか。
考えられるのは、個人的な知り合いだったか、末広旅館に泊まった客というだけの関係、のどちらかです。


柴田宏の経歴を読むと、
上海で生まれ、外務省に入ることを目指していたが父の死によって断念し貿易会社を設立、その後軍属として満州インドネシアを転々とする
というようになっており、足立区の旅館の女将さんになる人とは殆ど接点がなさそうです。あまり共通の話題も無いでしょう。
柴田宏本人が娘に説明している通り、仕事で遅くなったときに末広旅館に何度か泊まったことがあるというだけのこと、と考えるのが妥当だと思います。娘に説明できないような関係なら年賀状も送らない筈ですから。


そこで最初に変だと思うのは、年賀状の送り手の名前を「長島フク」にしていることです。旅館の名前を入れるのであれば、主人である「長島勝三郎」にするのが普通ではないでしょうか?
昭和20年代ということを考慮すると、特にそう思います。
長島フクの供述調書にも、「営業のほうの実際の仕事は主人がしている」と書かれています。


次に不思議なのは、この年賀状には一体何の意味があるのかということです。
足立区の連れ込み旅館から年賀状を送られて、嬉しい人が居るのでしょうか?
家族がいないのであればどうでも良いですが、家族に見られると迷惑なだけでしょう。


そして不可解なのは、「最後の証言」の年賀状の説明で、
五反野という住所にも覚えがあった」
と書かれていることです。
この書き方では、末広旅館の住所の中に五反野という文字が含まれているとしか解釈できません。しかし含まれていないのです。
末広旅館の住所は「足立区千住末広町75」です。
実は、末広旅館とその隣の家の間が町の境界で、末広旅館は「千住末広町」ですが、隣の家から先は下山総裁の轢断現場までずっと「五反野南町」になっています。これは知らない人なら間違える可能性があります。
でも、実際住んでいる人が自分の住所の町名を間違えて年賀状に書くでしょうか。間違える筈はありません。
これはどういうことなのでしょうか?


もう一つ疑問があるのですが、長くなったので次回。