長島フクからの年賀状 (6)

年賀状についての疑問点の続きです。

先月、国会図書館で昭和34年の末広旅館に関する新聞記事を縮刷版で確認してきました。
その記事によれば、末広旅館は昭和31年に廃業しているようです。記事の中の該当する文を引用します。

旅館も事件以来パッタリと客足も絶え、三年前に建物半分を医者に売り不動産屋に転業した。


この説明を普通に読めば、昭和31年に旅館を廃業していることになります。
ただし厳密に考えれば建物半分を売ったのが三年前で、その後も旅館は継続して昭和34年の早い時期に廃業したという可能性も、この文章だけの解釈ならばあり得ます。
しかし、新聞記事に載っている木造二階建ての不動産屋の写真を見ると、その敷地のサイズでは旅館の営業は実際には無理です。(家族が住む場所も必要ですから)
従って昭和31年に廃業していることは確実と思います。


前回のエントリで「最後の証言」から引用した、年賀状の説明部分をもう一度見てください。どこにも旅館が廃業したと思わせるような記述はありません。
「毎年同じような図柄の年賀状で、旅館の名前と住所が印刷してあり」という部分を読めば、十一年間ずっと同じように旅館の名前と住所が印刷されて送られてきたとしか思えないのです。
昭和24年から34年まで年賀状が送られていたという、あまり覚えやすいとは思えないことまで完璧に覚えているのに、途中から送り主の末広旅館という記述が消滅(あるいは別の事業体名に変更)したことは全く覚えていないのでしょうか?
柴田哲孝の母親は送り主の名前が女性だったことが気になって、その年賀状のことを柴田宏に聞いたことがあるというのですから、送り主の部分に旅館の名前があるのとないのでは、年賀状の印象が全く変わると思います。

このように、年賀状の話に私は真実味を全然感じないのですが、ここまで読まれた方はどのように思われたでしょうか?


長島フクに関するエントリは、これで終わりです。
今後は、佐藤一が問題として挙げた点を中心にして、「最後の証言」の問題点のリストのような物を作ることを考えています。まだ始めていないので、どうなるかわかりませんが。