長島フクからの年賀状 (2)

下山事件に詳しくない人のために簡単に概要を説明します。


下山国鉄総裁は1949年7月6日午前0時19分30秒に常磐線上で貨物列車に轢断されますが、その前の7月5日の午後二時頃から午後五時半まで一人で休憩した場所が末広旅館。そのときに応対して少し会話を交わしたのが、長島フクです。
末広旅館を出てからの総裁については、現場周辺での目撃情報はたくさんありますが、他に立ち寄ったと思われる所はありません。従って長島フクの供述調書が下山事件にとって最も重要な証言となります。彼女が会ったのが本当に下山総裁本人であれば自殺、総裁の替え玉であれば他殺ということです。


末広旅館は東武伊勢崎線五反野駅から約100mの距離にありました。
末広旅館に総裁が姿を現すよりも少し前の時刻、五反野駅に午後一時四十三分着の浅草発大師前行電車が到着して、約二十人が下車しました。その中の一人の男が改札にいた五反野駅員に切符を渡してから、「この辺に旅館はないですか」と尋ねます。これに対して駅員は末広旅館を教えます。
この男が下山総裁(あるいは替え玉)ではなく、事件に全然関係ない別の人であるということも可能性としては考えられます。駅員自身も総裁だったとは断定できないと言っています。「背の大きい四十歳から五十歳の間の年で白ワイシャツに茶のさめたような背広上下を着た男」ということしか記憶していません。
しかし長島フクの供述調書によれば、「四年間商売をしていますが、このへんで昼間一人で来る客など、あの人が初めてであります」と書かれています。このような珍しい出来事に対応する時刻に、年格好が一致している別の一人の男が駅員から末広旅館を紹介されるという偶然もなさそうですので、旅館を駅員に尋ねた男は総裁(あるいは替え玉)であったとして良いでしょう。


実際、そのことを疑問視している人は、自殺説、他殺説のどちらにもいないようです。
疑問視どころか、むしろ駅員の証言から総裁本人ではなく替え玉であることを強調しようとしています。総裁は東武鉄道の優待パスを持っていました。本物の総裁であれば何故切符を買う必要があるのか、優待パスを使えば良いではないかということです。しかしこれに対する答えは簡単で、優待パスには下山定則の名前が書いてあるからです。これでは使う気にはなりません。末広旅館で宿帳の記入を断った行動とも合致しています。

もう一つは、何故わざわざ「この辺に旅館はないか」と駅員に聞いたのか、というものです。
大野達三「アメリカから来たスパイたち」の中に以下の記述があります。

当時、五反野駅付近には大小約五件の旅館があり、改札口の外に立っただけでその二つが目撃できたのである。

駅員に聞いた行為が全く必要のないもので、替え玉が目撃証言を増やすための意図ではないのか、ということです。
確かに聞く必要はなかったでしょう。外をよく見る前に聞いてしまっただけかもしれません。聞いた理由は総裁本人しかわかりませんが、あえて推測すれば、どの旅館も馴染みがないので、中立そうな人に推薦して欲しかったという位でしょうか。


しかし駅員に旅館を聞いたという行為は、これらのこととは全く別の意味で重要なのです。
これを言う人が今までほとんど居なかったことが以前から不思議だったのですが、この文章を書いている途中で解りました。それは長島フク(を含めた末広旅館に住んでいる家族)が事件に対して、どのような立場だったかを、場合分けして考えていないからです。


自殺ではなく他殺であった場合、長島フクの立場は以下の三通りに分けられます。
(AとBの場合、実際に替え玉が旅館に来たかどうかについては限定していない)

A. 事件前から犯人側に証言で協力することになっていた
B. 事件前は何も知らず、事件後になってから証言の協力をさせられた
C. 犯人側とは何の関係もなく、見たことをそのまま証言した


私が他殺説の本をいくつか読んだ範囲内では、Aに限定しているものは意外とありませんでした。
長島フクの立場について何も書いてないものは、A,B,C全部の可能性を残しているのか、あるいはCだと考えているのか、のどちらかです。長島フクの夫が元特高だったということを強調しているものなら、A,Bどちらかということでしょう。
Aに限定しているのは、柴田哲孝下山事件 最後の証言」だけでした。この本では、長島フクから亜細亜産業の柴田宏に年賀状が昭和24年から送られていたという証言が大きな比重を占めるので、A以外の立場はありません。


ところで、Aは成立しないのです。