1945年のエピソード
自分の宿題のように思っていたが、面倒なので何年間も放置していたことについて調べた。
司馬遼太郎が属していた戦車連隊が栃木県佐野にいたときのこと。
米軍の上陸にたいする作戦について説明するために大本営参謀がきて、連隊の将校などが集められた。このときの参謀の発言に強烈な印象を受けたということを、司馬は何度か書いている。しかし、奇妙な点がある。
三日間で、「司馬遼太郎が考えたこと」全15巻、「司馬遼太郎対話選集」(1-10)、「この国のかたち」(1-6)、「坂の上の雲」、その他に文春文庫のエッセイ集を数冊、についてだけ調べた。この中に上記のエピソードについて書かれたものを三個見つけることができた。他に、野坂昭如が昭和44年に大阪の飲み屋で司馬から聞いた話として紹介しているのを見つけた。
- 「司馬遼太郎が考えたこと」2巻 百年の単位 (初出) 昭和39年2月
- 「司馬遼太郎が考えたこと」6巻 石鳥居の垢 (初出) 昭和47年7月
- 「司馬遼太郎対話選集6」 戦争と国土 (初出) 昭和46年1月
- 「司馬遼太郎の世界」国とは何やろか (野坂昭如)
1では司馬ではない将校が参謀に質問したとなっていて、他の三つでは司馬が参謀に質問したことになっている。質問を受けた参謀の様子の記述も、それぞれ微妙に異なっている。1は「ごくあたりまえな表情で」、2は「しばらく私を睨みすえていた」、3は「ぎょっとした顔で考え込んで」。
「司馬遼太郎が思想というものを尊敬しなくなった原点」という話の記述が、何故これだけぶれるのだろうか?
今のところ三個だけしか記述を見つけられなかったが、延吉実『司馬遼太郎とその時代』には、もっと多くあったと書かれていたような記憶がある。さらに他の矛盾点も書いてあった(相手が参謀ではなく別の人?)気がするが、何故か手元にこの本が見当たらないので今はわからない。
1「司馬遼太郎が考えたこと」2巻 百年の単位
連隊のある将校が、このひとに質問した。
「われわれの連隊は、敵が上陸すると同時に南下して敵を水際で撃滅する任務を持っているが、しかし、敵上陸とともに、東京都の避難民が荷車に家財を積んで北上してくるであろうから、当然、街道の交通混雑が予想される。こういう場合、我が八十輛の中戦車は、戦場到着までに立ち往生してしまう。どうすればよいか」
高級な戦術論ではなく、ごく常識的な質問である。だから大本営少佐参謀も、ごくあたりまえな表情で答えた。
「轢き殺してゆく」
私は、その現場にいた。私も四輛の中戦車の長だったから、この回答を、直接、肌身に感ぜざるをえない立場にあった。
2「司馬遼太郎が考えたこと」6巻 石鳥居の垢
終って、質問になった。即成教育を受けただけの私にはむずかしいことはわからなかったが、素人ながらどうしても解せないことがあった。その道路が空っぽという前提で説明されているのだが、東京や横浜には大人口が住んでいるのである。敵が上陸ってくれば当然その人たちが動く。物凄い人数が、大八車に家財道具を積んで北関東や西関東の山に逃げるべく道路を北上してくるにちがいなかった。当時は関東のほとんどの道路は舗装されておらず、路幅もせまく、やっと二車線程度という道筋がほとんどだった。戦車が南下する、大八車が北上してくる、そういう場合の交通整理はどうなっているのだろうかということだった。
その人は相当な戦術家であったであろう。
(略)
このため、この戦術という高級なものを離れた素人くさい質問については考えもしていなかったらしく、しばらく私を睨みすえていたが、やがて昂然と、
「轢っ殺してゆけ」
と、言った。