シュレーディンガーの猫

以前から思っていたこと。
シュレーディンガーの猫」は、観測者が箱を開ける時点の状態を議論しているケースがほとんどであるが、どう考えてもα線検出器で検出された段階で状態は確定している。もし観測者が箱を開けた時点で状態が確定するというのであれば、それは観測者もしくは観測者の役割を果たす記録装置が、検出器よりも物理的に優越していると考えていることになり不合理。

例えば、分裂勘違い君劇場(2006/06/18)では、以下のような説明をしているのだが、間違っていると思う。(多世界解釈に立っているのでない限り)

人間と猫を一緒に入れられるような大きな箱を用意して、人間だけは毒ガスにやられないように、ガスマスクをつけておくことにします。その場合でも、やっぱり、猫が一時間前に死んだことが、箱のふたを開けた瞬間に決定されます。箱の中では、ちゃんと人間が猫の生死を観測しているのにもかかわらず、です。

もしも、箱の中に入っていた人の観測では猫が生きていた場合、それでも箱を開けるまで状態が確定しないのであれば、外の人は死んだ猫を観測することが起こり得る。そのとき箱の中の人が「猫は生きている」と言うのを、外の人は聞くことになるのだろうか?

以下のように説明が続く。

じゃあ、そのとき、箱の中の人間は、生きている状態と死んでいる状態の中間的な状態の猫を観測できるのか、というと、そんなことは無いんです。箱の中の人間が一時間前に猫が死ぬのを観測したという事実が、箱を開けた瞬間に決定されるのです。もしくは、箱の中の人間が猫はずっと生きて元気にしていたというのを眺めていたという事実が、箱を開けた瞬間に決定されるのです。

箱を開けるまでの間、箱の中の人が観測していた内容は無効にされて、外の人の観測でリセットされる? そうしなければ、箱の中の人の観測だけで確定されてしまう。
しかしそうだとすると何故、外の人と中の人の間に、このような差別的待遇があるのか理解できない。外の人は積極的に観測していたからとでも言うのか?

もし箱を開けるまで状態が確定しないという立場であれば、多世界解釈を採用しないと不合理な状況になるというのが、今考えた結論だがどうか。