たかじんNOマネー

たかじんNOマネー柴田哲孝が出演するという情報をキャッチした。
ゲスト:柴田哲孝ベンジャミン・フルフォード 陰謀論マネー


番組ホームページの次回放送内容にも出ていたが、今見ると消えている。
予定変更になったのかもしれないし、どんな内容かも知らない。下山事件について何か言うのだろうか?
これ以上、馬鹿げた陰謀論が拡散しないことを望む。
このページも宜しく。
長島フクからの年賀状

東京鉄道局長暴行事件

下山事件で検索していると、次のページが見つかった。
終戦直後、朝鮮人が日本人にしたこと。(具体例)


この中に、昭和21年に下山定則が東京鉄道局長のとき、三国人から暴行を受けた話が出ている。
しかし事実誤認と思われる点が二つある。
一つは、睾丸破裂など半死半生にはなってはおらず、怪我はしたけれど急所を蹴られたように装って難を逃れることができたということ。
もう一つは、仮に重傷を負ったとしても、三年後の下山事件司法解剖の結果には影響を与えることはない筈。
(このことは、東鉄局長時代の暴行事件に書いてある)


「下山総裁の追憶」(1951年、下山定則氏記念事業会)から、この事件の最初の部分だけ引用しておく。

終戦後一年位たつた時で東鉄が本省の五階で事務を執つていた頃、日本から引き揚げていく台湾の人達が乗車する客車に給水が出来ていないということで、東京駅でいろいろと揉み合つた末、責任者は誰か、東鉄局長だろうということになり十数名の代表者が怒鳴り込んできた。

長島フクからの年賀状 (6)

年賀状についての疑問点の続きです。

先月、国会図書館で昭和34年の末広旅館に関する新聞記事を縮刷版で確認してきました。
その記事によれば、末広旅館は昭和31年に廃業しているようです。記事の中の該当する文を引用します。

旅館も事件以来パッタリと客足も絶え、三年前に建物半分を医者に売り不動産屋に転業した。


この説明を普通に読めば、昭和31年に旅館を廃業していることになります。
ただし厳密に考えれば建物半分を売ったのが三年前で、その後も旅館は継続して昭和34年の早い時期に廃業したという可能性も、この文章だけの解釈ならばあり得ます。
しかし、新聞記事に載っている木造二階建ての不動産屋の写真を見ると、その敷地のサイズでは旅館の営業は実際には無理です。(家族が住む場所も必要ですから)
従って昭和31年に廃業していることは確実と思います。


前回のエントリで「最後の証言」から引用した、年賀状の説明部分をもう一度見てください。どこにも旅館が廃業したと思わせるような記述はありません。
「毎年同じような図柄の年賀状で、旅館の名前と住所が印刷してあり」という部分を読めば、十一年間ずっと同じように旅館の名前と住所が印刷されて送られてきたとしか思えないのです。
昭和24年から34年まで年賀状が送られていたという、あまり覚えやすいとは思えないことまで完璧に覚えているのに、途中から送り主の末広旅館という記述が消滅(あるいは別の事業体名に変更)したことは全く覚えていないのでしょうか?
柴田哲孝の母親は送り主の名前が女性だったことが気になって、その年賀状のことを柴田宏に聞いたことがあるというのですから、送り主の部分に旅館の名前があるのとないのでは、年賀状の印象が全く変わると思います。

このように、年賀状の話に私は真実味を全然感じないのですが、ここまで読まれた方はどのように思われたでしょうか?


長島フクに関するエントリは、これで終わりです。
今後は、佐藤一が問題として挙げた点を中心にして、「最後の証言」の問題点のリストのような物を作ることを考えています。まだ始めていないので、どうなるかわかりませんが。

長島フクからの年賀状 (5)

年賀状について。
下山事件 最後の証言」の著者である柴田哲孝の母(=柴田宏の娘)の記憶によって、長島フクから柴田宏に年賀状が送られていたことが判明します。実際に年賀状が残っているわけではなく、母親がそれを見たことを証言しているという話です。


下山事件 最後の証言」から、その部分を引用してみます。

母の記憶によると、長島フクの年賀状が来ていたのは、昭和二四年から三四年までだという。祖父の年賀状を整理するのは毎年母の役目だったので、よく覚えている。後で調べてみると、長島フクは昭和三四年に子宮癌のために死亡していた。母の記憶と完全に一致する。毎年同じような図柄の年賀状で、旅館の名前と住所が印刷してあり、末尾に直筆で長島フクの名が書き加えられていた。五反野という住所にも覚えがあった。

柴田哲孝は、年賀状の存在によって長島フクと柴田宏の両者が知り合いであったことが明らかになって、長島フクが偽証をしたことと、亜細亜産業が下山事件に関係していたことの証拠となると言いたいようですが、それはおかしいと思います。
事件に関係しているのであれば、年賀状は家族に見られる可能性が高いので、むしろ送らない筈です。実際、娘に見られたために半世紀後に疑われて、「最後の証言」に書かれてしまった訳ですから。昭和24年の正月は事件前なので良いとしても、それ以降は送らない筈でしょう。年賀状の存在は、両者の関係が事件とは無関係のものであることを示していると言えるくらいです。
長島フクについては、下山事件に事前の協力関係がありえないことを以前に書いた(駅員の証言の部分)ので、年賀状が本当に送られていたとしても下山事件に関係ないことは明らかです。そして年賀状を誰が誰に送ろうが勝手ではあるので、このような年賀状は無かったと証明するようなことも無理です。(60年も前のことですし)


しかし幾つか気になる点があるので、そのことを書きたいと思います。


まず、長島フクと柴田宏はどういう関係なのでしょうか。
考えられるのは、個人的な知り合いだったか、末広旅館に泊まった客というだけの関係、のどちらかです。


柴田宏の経歴を読むと、
上海で生まれ、外務省に入ることを目指していたが父の死によって断念し貿易会社を設立、その後軍属として満州インドネシアを転々とする
というようになっており、足立区の旅館の女将さんになる人とは殆ど接点がなさそうです。あまり共通の話題も無いでしょう。
柴田宏本人が娘に説明している通り、仕事で遅くなったときに末広旅館に何度か泊まったことがあるというだけのこと、と考えるのが妥当だと思います。娘に説明できないような関係なら年賀状も送らない筈ですから。


そこで最初に変だと思うのは、年賀状の送り手の名前を「長島フク」にしていることです。旅館の名前を入れるのであれば、主人である「長島勝三郎」にするのが普通ではないでしょうか?
昭和20年代ということを考慮すると、特にそう思います。
長島フクの供述調書にも、「営業のほうの実際の仕事は主人がしている」と書かれています。


次に不思議なのは、この年賀状には一体何の意味があるのかということです。
足立区の連れ込み旅館から年賀状を送られて、嬉しい人が居るのでしょうか?
家族がいないのであればどうでも良いですが、家族に見られると迷惑なだけでしょう。


そして不可解なのは、「最後の証言」の年賀状の説明で、
五反野という住所にも覚えがあった」
と書かれていることです。
この書き方では、末広旅館の住所の中に五反野という文字が含まれているとしか解釈できません。しかし含まれていないのです。
末広旅館の住所は「足立区千住末広町75」です。
実は、末広旅館とその隣の家の間が町の境界で、末広旅館は「千住末広町」ですが、隣の家から先は下山総裁の轢断現場までずっと「五反野南町」になっています。これは知らない人なら間違える可能性があります。
でも、実際住んでいる人が自分の住所の町名を間違えて年賀状に書くでしょうか。間違える筈はありません。
これはどういうことなのでしょうか?


もう一つ疑問があるのですが、長くなったので次回。

長島フクからの年賀状 (4)

A説が無理とわかったので、残っているB,C説について考えていきます。


最初にB説
長島フクは事件前は何も知らず、事件後になってから証言の協力をさせられた
について。


この場合、証言の協力を要請したのは犯人側だけとは限らず、警察である可能性があります。

B1. 警察が証言の協力を要請
B2. 犯人側が証言の協力を要請


B1の場合
警察が協力を要請した理由は何かについて、ここでは考えません。可能性についてだけ考えます。
警察は犯人ではないので、捜査途中では替え玉の行動全体を把握できていません。証言をする対象の時間帯(午後二時から五時半まで)に末広旅館がどのような状況だったかについても、すぐには把握できないと思います。死体発見は七月六日で、平正一「生体れき断」によると、七日の午後四時の段階で毎日新聞の記者が本社に電話して、末広旅館で総裁らしき人が休息したことを報告しています。警察が工作するとすれば、それよりもかなり前の時間でなければなりません。
これだけの短時間の判断で、他の証言や証拠に対して致命的な矛盾を発生させずに末広旅館に偽証を要請することは無理だと考えます。(結果的には可能だったかもしれませんが、警察自身がその時点で可能だとは思わないでしょう。)


B2の場合
犯人側は多くの人間が関わっている計画を実行しておきながら、事件後になってから旅館の証言を工作をしようとするか、という点で疑問です。既に警察が大規模な捜査している最中に旅館にアプローチして、上手くいくとは思えません。それなら計画時点で組み込むでしょう。
一つ前のエントリで説明した様に、どの旅館に行くか事前に決められないのですから、女中を置いていないと思われる末広旅館ではなく、もっと大きな旅館に行くことになる可能性もあります。その場合、複数の人に替え玉が目撃される可能性が高いので、その全員に協力させるのは困難としか言いようがありません。


最後にC説
長島フクは犯人側とは何の関係もなく、見たことをそのまま証言した
についてですが、これについては「下山事件全研究」に書かれていることを利用します。


長島フクは下山総裁のクセについて、いくつか証言しています。これらは家族か側近の人しか知りません。
警察は替え玉説の可能性についてもきちんと捜査しています。家族と側近の交友関係を調査し、聞き取り調査もして、疑いのある人は全くなかったことが明らかになっています。(クセ情報の流出なし)
このように総裁のクセの情報を入手すること自体が困難ですが、その情報を入手できて替え玉が実行したとしても、旅館の人が見逃さずに覚えておいてくれるかどうか当てになりません。


事前に旅館に対して工作をしていなかった場合、さらに次のような問題があります。
下山総裁の行方がわからなくなってからある程度の時間が経過すると、それがニュースになってラジオで放送されてしまいます。実際に午後三時半の臨時ニュースと午後五時の定時ニュースで流れています。これを事前に予想していないとすれば、ずいぶん楽観的な犯人ということです。(実際の末広旅館では、このニュースを聞いていなかったようです。供述調書によると「家のラジオは野球放送がかかっていました。」となっています。)
もしその時点で警察に連絡されると、計画は完全に失敗します。


もう一つ付け加えると、長島フクは事件後、下山総裁をもう一度見て確認しているのです。実物ではなく映像ですが。
(ニュース映画と末広旅館の女将 http://shimoyamacase.com/etc/etc9.html)


B,Cの場合についても、実現性は殆どないことが示されました。
以上で、替え玉説は成立しないことが、はっきりしたと思います。
他殺説の主張は下山総裁本人であると認めると自殺という結論になるので替え玉だと言っているだけで、替え玉説は元々無理な話なのです。


最後に、年賀状について検討したいと思います。

長島フクからの年賀状 (3)

長島フクの立場について、A説の
事件前から犯人側に証言で協力することになっていた
が成立しない理由を説明します。


事件前から協力することになっていたということは、予め末広旅館に決めていたということです。しかし五反野駅員に旅館を聞いているので、どの旅館になるのか予測不可能です。駅員の言った旅館を無視して末広旅館に行くことは可能ではありますが、そんなことをするくらいなら、旅館を聞かずに他のことを質問すれば済みます。


駅員が多分、末広旅館と答えるだろうと期待するのも無理です。
柴田哲孝下山事件 最後の証言」の中で、末広旅館があった場所の隣に住んでいる老人の話がでてきます。

「末広旅館ていうのは汚い連れ込み宿でね。そんなところに下山さんみたいな偉い人が来るもんかってさ。みんなでそう噂してたんだよ。」

駅員が末広旅館を選んだ理由も、駅員自身の証言によれば

「以前から知って居る末広旅館を教えてやりました。」

というように、個人的に知っていたからという理由で、誰でも末広旅館と答えるだろうと期待するのは無理のようです。


最後に残る可能性として、駅員も予め犯人側に協力することになっていたということが考えられますが、常識的に考えてそこまで手間をかける意味があるとは思えませんし、佐藤一「下山事件全研究」の68ページに駅員の話が載っています。

「五日は日勤で、清算係をしていた。午後一時四十三分着の下り電車がきたとき、改札係が昼食をとっていたので、かわりに改札口で集札をしていた。」

このように、その駅員が改札係をしていたのは、別の改札係がその時間に昼食をとっていたからに過ぎないのです。


以上でA説が成り立たないことが示されました。
これで「下山事件 最後の証言」に述べられたような、長島フクと亜細亜産業の柴田宏との間に事件に関係する繋がりがあったという可能性は消滅です。
第59回 日本推理作家協会賞受賞作品は、ブログの二個のエントリで論破される程度の内容だったということです。

これにて終了でも良いのですが、折角なので他の場合(B,C)についても考えていきます。

長島フクからの年賀状 (2)

下山事件に詳しくない人のために簡単に概要を説明します。


下山国鉄総裁は1949年7月6日午前0時19分30秒に常磐線上で貨物列車に轢断されますが、その前の7月5日の午後二時頃から午後五時半まで一人で休憩した場所が末広旅館。そのときに応対して少し会話を交わしたのが、長島フクです。
末広旅館を出てからの総裁については、現場周辺での目撃情報はたくさんありますが、他に立ち寄ったと思われる所はありません。従って長島フクの供述調書が下山事件にとって最も重要な証言となります。彼女が会ったのが本当に下山総裁本人であれば自殺、総裁の替え玉であれば他殺ということです。


末広旅館は東武伊勢崎線五反野駅から約100mの距離にありました。
末広旅館に総裁が姿を現すよりも少し前の時刻、五反野駅に午後一時四十三分着の浅草発大師前行電車が到着して、約二十人が下車しました。その中の一人の男が改札にいた五反野駅員に切符を渡してから、「この辺に旅館はないですか」と尋ねます。これに対して駅員は末広旅館を教えます。
この男が下山総裁(あるいは替え玉)ではなく、事件に全然関係ない別の人であるということも可能性としては考えられます。駅員自身も総裁だったとは断定できないと言っています。「背の大きい四十歳から五十歳の間の年で白ワイシャツに茶のさめたような背広上下を着た男」ということしか記憶していません。
しかし長島フクの供述調書によれば、「四年間商売をしていますが、このへんで昼間一人で来る客など、あの人が初めてであります」と書かれています。このような珍しい出来事に対応する時刻に、年格好が一致している別の一人の男が駅員から末広旅館を紹介されるという偶然もなさそうですので、旅館を駅員に尋ねた男は総裁(あるいは替え玉)であったとして良いでしょう。


実際、そのことを疑問視している人は、自殺説、他殺説のどちらにもいないようです。
疑問視どころか、むしろ駅員の証言から総裁本人ではなく替え玉であることを強調しようとしています。総裁は東武鉄道の優待パスを持っていました。本物の総裁であれば何故切符を買う必要があるのか、優待パスを使えば良いではないかということです。しかしこれに対する答えは簡単で、優待パスには下山定則の名前が書いてあるからです。これでは使う気にはなりません。末広旅館で宿帳の記入を断った行動とも合致しています。

もう一つは、何故わざわざ「この辺に旅館はないか」と駅員に聞いたのか、というものです。
大野達三「アメリカから来たスパイたち」の中に以下の記述があります。

当時、五反野駅付近には大小約五件の旅館があり、改札口の外に立っただけでその二つが目撃できたのである。

駅員に聞いた行為が全く必要のないもので、替え玉が目撃証言を増やすための意図ではないのか、ということです。
確かに聞く必要はなかったでしょう。外をよく見る前に聞いてしまっただけかもしれません。聞いた理由は総裁本人しかわかりませんが、あえて推測すれば、どの旅館も馴染みがないので、中立そうな人に推薦して欲しかったという位でしょうか。


しかし駅員に旅館を聞いたという行為は、これらのこととは全く別の意味で重要なのです。
これを言う人が今までほとんど居なかったことが以前から不思議だったのですが、この文章を書いている途中で解りました。それは長島フク(を含めた末広旅館に住んでいる家族)が事件に対して、どのような立場だったかを、場合分けして考えていないからです。


自殺ではなく他殺であった場合、長島フクの立場は以下の三通りに分けられます。
(AとBの場合、実際に替え玉が旅館に来たかどうかについては限定していない)

A. 事件前から犯人側に証言で協力することになっていた
B. 事件前は何も知らず、事件後になってから証言の協力をさせられた
C. 犯人側とは何の関係もなく、見たことをそのまま証言した


私が他殺説の本をいくつか読んだ範囲内では、Aに限定しているものは意外とありませんでした。
長島フクの立場について何も書いてないものは、A,B,C全部の可能性を残しているのか、あるいはCだと考えているのか、のどちらかです。長島フクの夫が元特高だったということを強調しているものなら、A,Bどちらかということでしょう。
Aに限定しているのは、柴田哲孝下山事件 最後の証言」だけでした。この本では、長島フクから亜細亜産業の柴田宏に年賀状が昭和24年から送られていたという証言が大きな比重を占めるので、A以外の立場はありません。


ところで、Aは成立しないのです。