「最後の証言」の変更点 (3)

第一章から参考文献まで全部終了したので、以下に置いておく。
http://www.geocities.jp/kosako3/shimoyama/saigonosyogen_diff.sjis.txt

伊藤律については、「日本の黒い霧」に注釈を付けなければならなくなったことからも明らかなように、スパイ説は完全に崩壊している。矢板玄が本当にスパイだと言ったとしても、矢板玄の証言が信用できないことがはっきりしただけではないか。
但し、あるGHQの高官と伊藤律が会っていた(スパイという意味ではなく)ことは、伊藤律自身が認めているということは最近見つけた。(「生還者の証言」145p)

矢板玄の証言よりも気になるのは、「最後の証言」の書き方から考えると、柴田哲孝伊藤律スパイ説が崩壊しているのを知らないで書いていたのではないかということだ。「最後の証言」の単行本が出たのが2005年なのに、そんなことがあるのだろうか。

生還者の証言―伊藤律書簡集

生還者の証言―伊藤律書簡集

「最後の証言」の変更点 (2)

前回は三章までアップしたが、今回は四章まで終わったので、以下に置いておく。
http://www.geocities.jp/kosako3/shimoyama/saigonosyogen_diff_20121103.sjis.txt


追加、変更は沢山あるが、事実関係として意味がある所は、「Iという関西料理屋」が「出井という関西料理屋」に変わった点、柴田哲孝の母親の年齢が一歳増えた点(数え年によるものか、単なる間違いか判らないが)くらいか。
第五章は結論が変わっているのだから、大幅に変更があるかもしれない。

「最後の証言」の変更点

文庫本と単行本でどこが変わっているのか正確に把握するために、読み比べながら違う箇所をメモしていく作業を続けている。
五月の連休中から始めて、昨日三章まで完了した。気が向いたときに数ページ進めるという感じなので、今年中に終わりそうもない。それで、三章までの内容を以下に置いておくことにする。
http://www.geocities.jp/kosako3/shimoyama/saigonosyogen_diff_20120928.sjis.txt


四月に白鳥事件の講演会で渡部富哉の話を聞いたので、「最後の証言」を読み直していくうちに伊藤律に関する記述が気になった。
矢板玄の証言では、伊藤律がスパイ行為をしていたと書かれており、大叔母の寿恵子の証言では、伊藤律(と思われる共産党の大物)が矢板玄から金を貰っていた(昭和22年末から昭和23年の間)と書かれている。
このようなことが実際にあったとは信じられないのだが、そのことについて誰か書いていないのだろうか。
(柴田が矢板玄にインタビューしたのは1992年の早い時期である。渡部富哉「偽りの烙印」の出版は1993年。)

ノンフィクションの理由

下山事件 最後の証言」がノンフィクションとして出ることになった状況について。
柴田哲孝がテレビディレクターの森達也と出会うきっかけを作ったのは映画監督の井筒和幸。その経緯を「最後の証言」で以下の様に書いている。

ある日、私はそれとなく井筒に「下山事件」について話してみた。下山事件については、発表する段階ではない。だが、フィクションとして映画を撮るならば、格好の素材だと思えた。
井筒は思った通り興味を示した。だが、その提案は予想外のものだった。
「この前の下山事件の話、ドキュメンタリーでやったほうがいいんやないか。実は会ってやってほしい男がいるんや。テレビの制作会社のディレクターなんやけど、信頼できる男やから...」

自分の親族が関わっていると信じている事件の話を、フィクションでも映画の素材にしようとするだろうか? その一方で、母親が泣いている姿を見て下山事件について調べるのを止めようと思ったがそれはどうしてもできなかった、ということが別の場所に書かれているのには呆れる。

森達也に会ってからの展開は、森達也「シモヤマケース」の中に詳しく書いてある。「シモヤマケース」は下山事件の真相について書かれているものではなくて、下山事件のネタをどこに売り込めるか、試行錯誤の様子が書かれている非常に変わった読み物。(私が最初に読んだ下山事件の本)
森は色んなところに売り込みに行くがテレビの企画は全て駄目になって、最終的に週刊朝日に辿り着く。そこで森達也が原稿を書くことになり、1999年に連載記事が週刊朝日に掲載される。
フィクションの素材として提供した筈のネタが、森によって活字の記事になってしまった。これが「最後の証言」をノンフィクションとしてしか出せなくなった背景ではないか。

下山事件(シモヤマ・ケース) (新潮文庫)

下山事件(シモヤマ・ケース) (新潮文庫)

勝利宣言/長島フクからの年賀状(8)

去年の九月は、図書館などに何度か足を運んで色々調べていました。
証拠にはならないので省略していたこともあるので、ここに書いておきます。
末広旅館の名前が印刷してある年賀状が、昭和34年の正月に送られてくることが本当にあり得るかどうか、以前のエントリと合わせて想像してみてください。


昭和34年の東京都区内の電話帳を確認したところ、

正美商会 不動産部 足、千住末広75
長島勝三郎(不動産) 足、千住末広75

の二つが同じ電話番号で見つかりました。

以前のエントリで書いた様に、やはり住所は足立区千住末広町75で正しいようです。
そして電話帳は昭和34年6月25日印刷となっていて、係の人に聞いたところ、この日付の大体三ヶ月前ぐらいがデータの締め切りではないかと言われました。そうすると34年3月が締め切りです。データの締め切りの直前まで末広旅館があって、廃業して間を置かず直ぐに不動産屋を営業し始めたと考えるのは不自然です。
昭和33年の終わりまでには不動産屋になっていたと考えるべきでしょう。(たとえそう考えなくても、以前のエントリで書いたように新聞記事の内容だけで、末広旅館が昭和31年に廃業していることは確実です)


昭和33年の9月には二度の台風(17日と26日)によって、足立区で大きな被害が出ています。
全世帯の約七割、約六万世帯が浸水。
末広旅館があった場所の前にはドブ川があったので、おそらく無事ではなかったと思います。

勝利宣言/長島フクからの年賀状(7)

11月に勝利宣言予告をした頃から興味を失って、最近は帝銀事件関係の本ばかり読んでいました。
しかし勝利宣言するということで、もう一度「下山事件 最後の証言」を飛ばし読みしてみました。そこで気になったのは、柴田哲孝の母が松本清張「下山国鉄総裁謀殺論」を読み終わった後の描写です。

「ねえ、大変だわ。この本の中に、私の知ってる人が出てくるのよ...」
それが、長島フクだった。
母はその名前だけでなく、末広旅館という屋号もはっきりと記憶していた。
直接会ったことはない。母が覚えていたのは年賀状だった。
「父さんところにこの人から毎年、年賀状が来ていた。女の人の名前なんで、気にはなっていたんだけど。いったいこれ、どういうことなんだろう...」

父親が末広旅館に泊まったことがあり、そのため長島フクから年賀状が来ていたというだけで、何故「大変」になるのでしょうか。
長島フクが偽証をしていると松本清張が書いているのであれば少しは理解できますが、そんなことは書いてありません。五反野周辺に現れたのは替え玉であり、長島フクと他の目撃者は単にそれを証言したということしか書かれていないのです。偶然、自分の知っている名前が出てきて驚いた、で済むことです。柴田哲孝の母親の側から、柴田宏が犯罪に関わっていたような雰囲気を作り出そうとする意味がわかりません。末広旅館に泊まっただけで犯罪者であると疑う必要はないでしょう。
「下山国鉄総裁謀殺論」の中身を再度確認しながら読まない限り、誰も不自然とは思わないで読み進めるでしょうが、ここにも無理があると思います。

勝利宣言予告

柴田哲孝が「あんまり言うとテレビ局が危なくなる」などと言っていたそうだ。

ところで私は一ヶ月前の10/08に、柴田哲孝のブログに以下の様にコメントして、「長島フクからの年賀状」のエントリを紹介している。

お久しぶりです。
下山事件 最後の証言」の問題点をblogに書きましたので見てください。
http://d.hatena.ne.jp/kkos/20110919

今年中に柴田哲孝から意味のある反論がなければ、一方的ではあるが、自殺説の勝利を宣言させて頂く。

佐藤一が1976年「下山事件全研究」の中で、松本清張朝日新聞の矢田喜美雄、東大の秋谷七郎鑑定を批判したが、私の知る限り、彼らから意味のある反論は出てこなかった。従って他殺説(謀略説)というのは、その時点で既に終わっているものなのである。今どき他殺説を唱えるのであれば、「下山事件全研究」に書かれていることの大半が間違いであることを示さなければ話にならない。